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歴史・伝統

​八丁堀の成り立ち

Histry

ブーケ21や桜川保育園、桜川公園、第一・第二桜川ポンプ場のある場所は、江戸時代から「八町堀舟入」と言われ、江戸湊(東京湾)から江戸城につながる重要な水運の入り口でした。川というより埋め立てられなかった場所が堀となったという方が正しいかもしれません。その堀の長さが八町(約870㍍)あったことから八町堀と名付けられたというのが説の一つです。
八町堀舟入から日本橋川にかけての地域(現在の八丁堀・日本橋茅場町・日本橋兜町)は江戸初期に埋め立てられて造成された土地と言われています。「武州豊嶋郡江戸庄図」にもあるように当初は寺社地でしたが、その後北町・南町の町奉行の与力や同心の住居を中心に町人が住む地域となり、八町堀と呼ばれていました。与力同心が貸し出した長屋に住む町人は、医者・儒者・検校・絵師・刷り師・彫師などであったそうです。その長屋に出入りするための路地が昭和の時代まで残っておりました。
八町堀舟入は明治時代に入ると楓川(もみじがわ)の対になるとのことから桜川と名づけられ、昭和40年代までダルマ船が行き来していました。
八丁堀は、戦前までミルクホールやダンスホール、寄席などある町で、昭和の時代まで住居あり、銭湯あり、印刷工場あり、鉄鋼会社あり、商店街ありの職住一体の町として発展してきました。
現在、町並みは大きく変わりましたが、町会を通じた人のつながりに今も八丁堀が受け継がれています。

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​百組

江戸から続く町火消の矜持

1720年南町奉行大岡越前守忠相公は火災の絶えない江戸の町内に「いろは四十八組」という町火消を立ち上げました。江戸城下は「の」の字を描いて拡大し、大名屋敷地域には大名火消が組織されていましたが、町人地にも「いろはにほへとちりぬるを・・・」と町ごとに組が置かれ、町火消が組織されました。以来、八町堀(現在の日本橋兜町・日本橋茅場町・八丁堀)を受け持つ町火消(まちびけし)が「百組」です。二番組百組という呼称は江戸時代の呼名となります。ちなみに二番組は、ろ組、せ組、も組、め組、す組、百組、千組となります。

​なぜ百組、千組など漢字が充てられる組名があるのかについては、諸説ありますが、いろはの中の「ひ」・「し」・「ん」など忌み嫌う文字を除外したからと言われております。

江戸から明治に変わっても町の火消しとしての矜持は受け継がれ、江戸消防記念会第一区九番組(百組)として活躍して頂いております。

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歴史と伝統: プログラム

町のランドマーク

昔からのつながり

京華スクエア(旧京華小学校・幼稚園)

京華スクエアは、以前は京華(きょうか)小学校・幼稚園でした。
京華(きょうか)小学校の創立は、1901年(明治34年)になります。1873年(明治6年)に創立されたお隣の阪本小学校とは随分差がありますが、これは八丁堀に寺子屋文化が根付いていたことと関係があると言われております。

当初の建物は木造校舎でしたが、1923年(大正12年)の関東大震災で全焼しました。
現在の建物は、帝都復興計画に基づく復興小学校として1929年(昭和4年)に建設されました。校庭を校舎が囲む設計思想は、火災から子供たちを守るために考えられたのではないかと思います。
戦時中の空襲もくぐり抜けて、建設当初の建物は現在もそのまま残っております。
校庭から屋上庭園(昔)につながる階段には子供たちが下りられるように滑り台があり、1923年から102年経った現在も見ることができます。

戦前は在校生1,000人を超える児童数を抱えるマンモス校でしたが、町の変化とともに人口が減少し、42人の在校生となった平成5年3月27日に京華小学校、京華幼稚園は、閉校・閉園となりました。

1993年(平成5年)に鉄砲洲小学校・幼稚園と統合され、中央小学校・幼稚園となりました。


地域のイベントや防災拠点訓練は、この建物の内側にある校庭や体育館で開催されます。

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天祖神社

 当町会の歴史資料によれば、「天祖神社を明治時代、松屋町の大神宮様と称しておりました。昭和初期の日枝神社末社と届ける折、大神宮様ではというので天祖神社と改称しました。」とあります。

江戸時代に「伊雑大神宮(いそべだいじんぐう)」と呼ばれていた現在の天祖神社は、

 武功年表によれば「伊勢伊雑宮より長官出口市頭(でぐちいちのかみ)、大神宮を江戸日本橋通三丁目へ祭る。寛永十年(1633年)に至り今の地へ(塗師町代地)遷座なし奉る。」とあります。

 当初武家屋敷であった当地は神田塗師町代地として町人地でありました。祭神は伊佐波登美命(いざわとみのみこと)と玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)です。伊勢神宮の外宮である伊雑宮(いざわのみや)より移されてきたそうです。
戦後も「いそべさん」、「大神宮様」と呼ばれていましたが、なぜ「いそべさん」かについては、伊雑宮(いざわのみや)が
伊勢市磯部町上之郷にあるからと言われております。

江戸のガイドマップである「江戸名所図会」や渓斎英泉の「楓川鎧の渡し古跡考」にも「伊雑大神宮(いそべだいじんぐう)」が紹介されております。
昭和20年2月の戦禍で社殿は焼失しましたが、十日会や崇敬者のご尽力により昭和33年(1958年)天祖神社の本殿並びに鳥居は再建、落成となり現在に至ります。

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祭礼・神輿

江戸から令和へ

山王祭

武功年表によれば

「元和元年 乙卯(きのとう)(1615年) 

6月15日、山王御祭礼、出し・練物始て御城内へ入る(大伝馬町太鼓に鶏の出しも、此頃既にありしよし、『事跡合考』に見ゆ。茅場町御旅所は、寛永中地所を給はる所といふ。此の地の天満宮も、春日の局より山王神主へ附属ありて当初に祀らるると云々。」とあります。

東都歳時記によれば江戸時代後期の山王祭は160の氏子町会が参加し、本八丁堀は32番目を受け持っております。
茅場町の薬師堂は山王権現の御旅所で、宮神輿の渡御が行われておりました。
江戸中頃より山王祭と神田祭は隔年交互に行ってまいりました。毎年行うと費用負担が大きかったからのようです。どちらの祭礼も明治維新後とコロナ禍では一時途切れますが、現在も祭礼の伝統は受け継がれております。
江戸から明治の中頃まで山車が中心の祭礼でしたが、現在は神輿が中心の祭礼で、山車は子供山車となっております。

なぜ山車の祭礼が神輿の祭礼となったのか、なぜ神輿の担ぎ方や掛け声が変わったのか等については、興味深い歴史の流れがあります。

町内を巡行する町内渡御、各町会が連合して巡行する連合渡御、すずらん通りや中央通りを渡御する下町連合渡御(日本橋・京橋・茅場町・八丁堀の各町会の連合渡御)など、現在も山王祭は盛大に執り行われております。町の祭礼は地域にお住いの皆様、企業の皆様からの奉納金で執り行われております。

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神輿師 秋山三五郎商店

すずらん通りと上大通り(江戸時代の通り名)の交差点に仏具店の秋山三五郎商店さんがあります。神輿師でもある秋山三五郎さんが当町会の御神輿を製作して下さいました。お稲荷さんがいるお店です。
当町会以外にも八丁堀二丁目西町会、八丁堀二丁目東町会、八丁堀三丁目東町会の御神輿も秋山三五郎商店さんの製作です。
また国立博物館には大正9年に初代秋山三五郎さんが製作した御神輿が震災前に製作された重要文化財として保管されています。近隣では、佃島にある住吉神社の宮神輿(八角神輿)も平成23年に製作されました。

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三西の神輿

町神輿は明治後期の深川富岡八幡宮の祭礼の頃から祭の中心となったと言われております。しかし関東大震災やその後の戦災で町と同時に多くの町神輿も焼失しました。

当町会の神輿は昭和31年6月に町内神輿師の秋山三五郎商店の秋山三五郎氏により製作されたものです。

普段は天祖神社の神輿蔵に保管されております。祭礼の無い年には神輿の虫干しが行われます。

 台輪 二尺三寸

 重量 神輿は御霊が入ると重さが変わるとされ、

               重量は測るものではないとされています。

 特徴 屋根は唐破風型

     亀甲模様の金物打ち付け

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